歴史人物辞典
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中臣鎌足 飛鳥
(なかとみのかまたり)
直江兼続 戦国
(なおえ かねつぐ)
内藤昌豊 戦国
(ないとう まさとよ)
永井荷風 明治
(ながい かふう)


長野主膳 幕末
(ながの しゅぜん)
成田氏長 戦国
(なりた うじなが)
夏目漱石 明治
(なつめ そうせき)
南部信直 戦国
(なんぶ のぶなお)


中大兄皇子 飛鳥
(なかのおおえのおうじ)



二宮金次郎 江戸
(にのみや きんじろう)
新田義貞 室町
(にった よしさだ)
丹羽長秀 戦国
(にわ ながひで)
仁科盛信 戦国
(にしな もりのぶ)


仁徳天皇 古代
(にんとくてんのう)
新納忠元
(にいろ ただもと)



額田王 飛鳥
(ぬかたのおおきみ)
沼田 顕泰 戦国
(ぬまた あきやす)





野口英世 明治
(のぐち ひでよ)
乃木希典 明治
(のぎ まれすけ)
延沢満延 戦国
(のべさわ みつのぶ)


中臣鎌足  なかとみのかまたり
飛鳥時代の人  うまいことやった政治家

中臣家は飛鳥時代の朝廷において神サマのお仕事をやっている家柄でした

そんな中臣家に生まれた鎌足は悶々としていた

「最近さぁー、蘇我氏のヤツラがハバきかせまくってるよなぁ。あいつらって渡来人だぜ?昔っから日本の天皇のために一生懸命やってきた一族じゃないんだぜ?なのに、えらっそーにしやがってよ!」というもの

そこで鎌足考えた「蘇我入鹿殺しちゃいたいナ・・・」

相談したのは中大兄皇子

この人も、蘇我入鹿のパワーに押されまくっていた天皇家の皇子様

鎌足に相談され「そうだな。殺っちゃおうか!」と作戦に乗った

こうして2人は蘇我入鹿を殺し、見事政権をゲット!

大化の改新を推し進め「日本の皆さん元気ですかー!?これからはこのツートップにまかせてくださいよー!」と張り切り始めた

こうして中臣鎌足は新天皇となった中大兄皇子(天智天皇)と協力しあい、悪どい手を使いまくって権力をゲットしていった

そして鎌足は「藤原姓」を貰った

日本に君臨しまくる「藤原氏」の始まりとなるのでした


嫌いな人・・・蘇我入鹿・蘇我蝦夷

嬉しかったこと・・・入鹿を殺せたこと♪

期待している人・・・藤原不比等 「ワシの次男じゃ。頭が良くてのぉ。期待の星なのじゃよ」

ヒトコト・・・「ワシの狙いに狂いはなかった」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★

キャッチフレーズ・・・藤原キング


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直江兼続  なおえかねつぐ
戦国時代の武将  上杉景勝のよきアドバイザー

1560年樋口家に生まれた兼続

台所まわりの仕事をしているお父さんに連れられてお城に出入りしているうちに、上杉謙信のお姉ちゃんにおりこうさんさをチェックされ、景勝の近習に取り立てられた

景勝とは気が会い、仲良しに

そんな中、上杉謙信が跡取りを決めないまま死んじゃった

こうして養子2人(景勝VS景虎)のバトルが始まる。これが御館の乱

これに勝利した景勝は上杉家のトップとなり、兼続とともに盛りたてまくっていく

が、時代は動きまくっていた。秀吉が天下を取ると逆らえなくなり、とうとう上杉家は豊臣家の下に

それでも「五大老」に任命され、豊臣政権下ではまぁまぁの地位をゲットできた

その豊臣秀吉社長が死に、飛び出してきたのが徳川家康

家康は「お前達はワシに従えよ」と言って来たので、怒った景勝&兼続コンビは「ふざけるなや!」とボロクソに書いた返事を出した これが有名な「直江状」

家康は「こんな生意気な手紙を貰ったのは生まれて初めてじゃあ!上杉家をやっつけにいくぞ!」と、兵をだした

「来るなら来いやぁ!」と強気の景勝&直兼

が、家康が上杉家に進軍させている間に、石田三成が挙兵し、慌てて家康は戻っていった

こうして中央は関ヶ原に集まり、上杉家は伊達政宗や最上義光らと東北でバトル

頑張ってたというのに、なんと関ヶ原の勝負が1日でついてしまった

こうなってはいつまでも逆らっててもどーしょーもないってことで、素直に家康に謝った

が、めちゃくちゃ石高を減らされ、上杉家はビンボーに

直兼は「負けたのは俺のせいだぁ!死んでお詫びするぅ!」と暴れまくるが、景勝に「ダメ!死んだら俺困るし。一緒に財政建て直していこうヨ」と言われ生きることに

その後は藩の建て直しに力を注ぎまくる人生となった


ポリシー・・・「愛」

宝 物・・・領民たち

嫌いな人・・・伊達政宗・徳川家康

好きな人・・・景勝サマ

尊敬する人・・・上杉謙信

友 達・・・石田三成

力 作・・・直江状「家康め!おれらをバカにするなっつーんだよ!」

スッキリしたこと・・・「オレら負けてから、超貧乏になっちゃったワケよ。でさ、江戸城で大名達が集まるパーティがあったワケよ。そしたらよ、片目野郎(伊達政宗)が、オレにむかって「おいおい、30万石っぽっちの藩が60万石のワシらに挨拶もないのか」って言ってきやがってよ!おれ、むかついてさぁ。「いやいや、あなたが伊達政宗殿だったんですか?いっつも後姿(逃げている姿)ばっか見てたから気がつきませんでしたよ」って嫌味言ってやったぜ!あースッキリ」

やりたくなかったこと・・・大坂の陣に参加させられたこと 「なんで徳川のために・・・??」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★ 「景勝とのコンビは最高」

キャッチフレーズ・・・愛 愛 愛


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内藤昌豊 ないとう まさとよ 1522年〜1575年
戦国時代の武将 武田四名臣の1人

昌豊のお父さんは、信玄の父・信虎とケンカして追放されたが、信玄が当主になってから呼び戻された

政治能力に優れており、さらに外交感覚もバッチリ

合戦においてもすばらしい働きをしたため、瞬く間に信玄のお気に入りに

川中島の合戦で、信玄の弟・信繁が死んでからは、武田家のNO2となる

が、尊敬する信玄が死んでしまった

若い新当主・勝頼との間はイマイチうまくいかず、長篠の戦の時も何度も「危ないからやめたほうがいい」と忠告するも無視される

仕方なく出陣するも、織田・徳川の鉄砲隊を前に武田勢はめちゃくちゃに

中央本陣でこの様子を眺めていた昌豊は、目の前で繰り広げられる悲惨な状況にいてもたってもいられなくなり、何とかこの状況を打破しようと、みずから先頭にたち1000騎を率いて織田家臣・滝川一益隊めがけて飛び出した

1000騎の昌豊隊は、3000の滝川隊をかなり錯乱させたが、鉄砲は容赦なく昌豊隊めがけて撃たれ続け、とうとう銃弾の前に命を落とすこととなった


性格・・・慎重・頭がいい

尊敬する人・・・信玄殿

好きな人・・・信玄殿

滝川一益談・・・「ものすごい勢いで焦りました」

ヒトコト・・・「勝頼殿がもう少し我々老臣の言うことを聞いてくれていれば・・・」

武田勝頼談・・・「いっつもいっつも信玄殿ならこうするだのあーするだのうるせーんだよ!」

歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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永井荷風 ながい かふう 明治12年〜昭和34年
東京生まれの作家

本名は永井壮一

お金持ちの家に生まれた荷風は、東京外語学校に入学するも中退

一時は落語家を目指すが、広津柳浪に教えてもらい小説家を目指し「地獄の花」を発表

注目を浴びるも、明治35年にアメリカに渡り、その後フランスへ

日本に帰ってきてからは森鴎外の推薦で慶応大学の教授となり、数々の作品を残した

代表作は「つゆのあとさき」「ひかげの花」

そして昭和27年には文化勲章をゲットするなど、大活躍人生

が、この人にはヒミツがあった

それは「女好き」

しかも変態・・・



趣味・・・他人の情事を覗くこと・カメラにとる事

好きな女性のタイプ・・・アブノーマルな女性

芸者八重次談・・・「荷風さん?スキだったけど、浮気ばかりするんですもの」

芸者富松談・・・「彼と私はお互いの名前をタトゥで彫るほどの仲だったのよ?それを八重次が出現したために私たちは別れたのよ!その後彼ったら八重次にフラれたからってヨリを戻そうとしたの!思いっきり断ってやったわよ!」

本妻ヨネ談・・・「わたくしと結婚した時には八重次さんという愛人がおりました。家には戻らずわたくしとの情事にはコンドームというこの時代見たことのないような器具を使用するのですよ?あれには驚きました。ええ。もちろん離婚いたしました」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★ 


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長野主膳 ながのしゅぜん 1815年〜1862年
幕末の人

出自は??

とりあえず滝野知雄に国学を習っていたらしい

そして伊勢などを歩き、国学を教え医師である三浦北庵などと知り合った

その北庵が井伊家のくいっぱぐれ男・井伊直弼に主膳が書いた本を見せた

埋木舎で寂しい生活を送っていた直弼は「この本を書いた主膳という人に会いたい」と北庵にお願いし、意気投合

こうして、出世の見込みゼロの井伊家十四男・直弼と、三流学者の主膳はマブダチに

が、運命は信じられない方向へ

なんと直弼が兄が死んだりなんだりで、彦根藩主になった

さらにさらに、なんと直弼、幕府の大老にまで上り詰めた

マブダチ主膳は直弼に朝廷工作を頼まれたりと、まさに「京都の大老」と言われるほど出世

直弼が行った安政の大獄も積極的に協力

が、直弼が桜田門外の変で殺されると、主膳は大ピンチに

さらに藩内で派閥バトルも勃発し、主膳は失脚し、捕らえられて殺されてしまった


ニックネーム・・・京都の大老

親 友・・・井伊直弼

安政の大獄について・・・「幕府、つまりは直弼に逆らう人を罰するのは当然じゃ!」

ヒトコト・・・「直弼のおかげでいい生活ができていたというのに・・・」

オモヒデ・・・「埋木舎で語り合ったひと時が懐かしい・・・」

ショッキングなできこと・・・妾が生きざらしにされたこと

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★


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成田氏長 なりた うじなが ?〜1595年
戦国時代の武将 北条家の家来

武蔵の国にある忍城(おしじょう)の城主

どっちかというと、この人より、奥さんは娘のほうがすごい

豊臣秀吉が天下統一の最終段階として小田原城の北条家を降伏させようと小田原攻めを始めた
もちろん家臣である忍城の成田氏長も家臣を引き連れ出陣

息子がいなかったため忍城の留守を妻(大田道灌のひ孫の娘)と、娘(甲斐姫)に任せた

さっそく忍城は豊臣家家臣の石田三成・浅野長政ら2万の兵に攻め込まれた
忍城にいるのは農民や町人・そして女性だけ

それでもずーーーーーーーっと攻撃に耐えた
耐えるどころか甲斐姫の活躍により、石田三成らは手も足も出せない状態に

そのうち本城である小田原城が降伏してしまった
そんなこと知らない忍城はいつまでたっても抵抗しまくっていた

主君が降伏したっつーのにいつまでも抵抗してるとは何事じゃい!と、秀吉に命令された成田氏長は忍城に戻り、妻と娘を説得

こうして忍城は開城することとなった

忍城は最後まで抵抗を続けた伝説に残るすごい城となったのでした

ちなみに、この娘である甲斐姫の勇敢さを秀吉が気に入り側室にした

こうして氏長は蒲生氏郷の家臣となり、下野烏山城主となったのでした


人生最大の焦り・・・「いやぁ、小田原城が屈したというのに、ワシの城がいつまでたっても抵抗してるとなりゃ、大変なことになると思って焦りましたよ!ほんと」

忍城の人々・・・「わしら、甲斐姫様の指揮のもと、耐えに耐えたというに・・・」

甲斐姫談・・・「なんでアタシがサルの側室になるわけぇ?」

成田家その後・・・なんとか家名は存続したが、二代目の時に息子が生まれずお家断絶


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★


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夏目漱石 なつめ そうせき 1867年〜1916年12月9日
明治時代の作家 本名 夏目金之助

江戸で生まれた漱石は、生まれてすぐに養子に出される

そして東大へ入学。ここで俳句で有名な正岡子規と親友になる

大学卒業後は東京高等師範学校へ就職したものの辞める

そして親友正岡子規の故郷である松山の松山中学に就職したり、熊本で教師になったり。

で、奥さん(中根鏡子)と結婚し、イギリス留学しちゃった

ここで神経的にまいったらしく、ちょっとお疲れ気味となる

帰国後、正岡子規が「本でも書いてみなよ」ってことで「我輩は猫である」を書く

最初、タイトルは「猫伝」だったんあけど、正岡子規の弟子である高浜虚子が「猫伝?だったら冒頭の我輩は猫であるの方がいいんじゃないの?」といい、タイトルがこうなった

かくして我輩は猫であるは大好評!

その後は「坊ちゃん」など様々な作品を書いては売れた

最後は「明暗」を書いてる途中に死んじゃった


性格・・・几帳面・ちょっと変人

漱石三部作・・・「三四郎」「門」「こころ」

漱石三部作より有名な本・・・「我輩は猫である」「坊ちゃん」

ショックだったことその1・・・「娘がワシの門下生の男二人と三角関係を起こしすったもんだしたこと」

ショックだったことその2・・・「妻が流産しうつ病になったこと」

ショックだったことその3・・・「さらに自分もうつ病になっちゃったこと」

娘の結婚相手(松岡譲)の孫談・・・「私は彼を祖父としては全然知りません。他の読者と同じく作家だということは知ってますけどね」

自慢・・・「千円札になったこと♪」

感謝しまくりの人・・・正岡子規

感謝しまくりの動物・・・黒猫


歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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南部 信直 なんぶ のぶなお 1546〜1599
戦国時代の人 南部家の当主

信直は名門・南部家の支族の子でした

が、24代の晴政に子供がいなかたため、信直が養子となる

だけど養子になってすぐに晴政にホントの子が生まれちゃう。もちろん晴政は自分のホントの子を跡継ぎにしたい

ってことで、信直は「このままだと家が分裂しちゃうなぁ」と、自ら家を出て行った

こーして25代は晴政の子・晴継がなる

が!その晴継がすぐに死んでしまった(九戸政実暗殺説あり)

とゆーことで、次の跡継ぎは誰か?とゆーこととなる

ここで出てくるのが南部家支族でメチャ強い九戸政実

支族でありながら、主家のっとりをたくらんでる政実は自分の弟を南部家の跡継ぎにしよーとするも、本家の家臣たちに反対され、信直が26代当主となる

怒った九戸家は信直に戦いを挑んできた

強い九戸家に困った信直は前田利家を通して秀吉に「助けて〜」とお願い

秀吉は大軍を送り込み、奥州仕置をしてくれ、九戸政実は斬首となった

こーしてなんとか助かった信直は、徐所に領地を安定させていったのでした


ヒトコト・・・「外も中も敵だらけの人生でした・・・・」

ラブな人・・・於三(おさん)「めちゃくちゃ美人なの!!仏門に入ってたんだけどね、ワシ、ヒトメボレしちゃったの!だから側室にしちゃった♪」

恩 人・・・鷹商人の清茂 「あいつが秀吉との仲をとりもってくれたんじゃ♪」

嫌いな一族・・・九戸一族 「あいつらとの戦いで南部家の兵力は半減しちゃったよ!」

特 技・・・シムシティ(街づくり)




歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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中大兄皇子 なかのおおえのおうじ 626年〜671年
飛鳥時代の人 のちの天智天皇

舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた皇子様

が、時代は蘇我氏が権力を握りまくっていた

そんな中、蹴鞠トモダチの中臣鎌足が「もう蘇我氏ばっかエバってて嫌ですよ!!こうなったら蘇我入鹿殺しちゃいましょーよ!」と言ってきた

天皇よりもエバりくさってる蘇我氏が気に入らなかった中大兄皇子は、とうとう決断

こーして蘇我入鹿を暗殺!お父さんの蘇我蝦夷をもやっつけ、クーデター成功

とゆーことで、中大兄皇子は見事権力をゲット

が、いつまでも天皇にならず「皇太子」のままでいた

それはナゼか?とゆーと、皇太子の方がフリーダムだから

こーして中大兄皇子はいろーんなコトをやってのける

まさに古代の超有名人

で、とうとう43歳の時に天智天皇となる


中大兄皇子のやったこと・・・大化の改新・飛鳥遷都・白村江の戦い・大津遷都・近江令

性 格・・・かしこい・全部俺のもの

マブダチ・・・中臣鎌足

秘 密・・・実の妹が大好きです

弟・大海人皇子談・・・「兄には本当に悩まされました。だってワシ、次の天皇になりたかったのに、自分の息子の大友皇子を天皇にさせたくなったらしく、ワシのこと邪魔者扱いするんですよ!だから兄が死ぬまでじぃーっと絶えてました。ん?もちろん兄が死んだ後大友皇子をやっつけてワシが天皇になりましたよ!有名な壬申の乱ってヤツですよ」

妻・額田王談・・・「わたくし、本当は大海人皇子と結婚しており、幸せに暮らしておりました。なのに中大兄皇子がわたくしを所望したのでございます・・・」

母親の皇極天皇談・・・「わが息子の殺人現場(蘇我入鹿暗殺)を目の前でみるとは夢にも思いませんでした・・・」

有馬皇子談・・・「ボク、この人大嫌いです!ボクのパパを馬鹿にしてたし!それにボクを無実の罪で殺したんですよ!!酷い男ですよ!」


歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★


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二宮金次郎  にのみやきんじろう
1787年〜1856年 江戸時代の人  神奈川県出身

金次郎はとてもお金持ちの家でした。が、お父さんがお人よしすぎたのか、貧しい人たちにお金をあげまくっていました。

親戚は「そんなことやってるとバカを見るぞ!」と言ってましたが、お父さんは「いやいや、みんなが幸せになってくれればいいのさ」と言ってました

ところが金次郎の家に大ピンチが!

なんと4歳の時に大洪水があり、二宮家の田畑がめちゃくちゃになってしまったのです。

家は超貧乏に!さらにひどいことに以前お金を貸してあげたり助けてあげてありした人たちはだーれも二宮家を構ってくれなかったのです。ショックでお父さんは病気がちになり死んじゃいました

金次郎は12歳にして一家の大黒柱に!ここで金次郎は「この貧しい暮らしを立て直すには学問が必要だ!勉強しなきゃ!」と必死に勉強。

薪を担ぎながら本を読む姿を人々はバカにしましたが「何だよ!今に見てろよ!」とさらに燃え上がりました

そして家を建て直し一生懸命働きました。それに目をつけたのが小田原貧乏藩主「なかなか賢い男だな。よし!ワシのとこに来てもらおう」とスカウト

そして城主は荒れた農村で、ヤクザがらみがわんさかいた栃木県の桜町を建て直ししてくれと命令しました

ここで金次郎は根気良く農民たちと共にがんばり、財政建て直しに成功したのでした

これだけ頑張った二宮金次郎ですが、戦後は人気急下落

というのも戦前は小学校に銅像を建てられ「勤勉・節約・誠実・向学・謙譲」の代表として「目標」とされていたのに、戦後はそういう教育の仕方はよくないということとなり、銅像は取られ「戦前教育の悪の権化」とされてしまったのです

本人は全くそんなつもりはないのにね

さらには学校の七不思議で「二宮金次郎の銅像が夜中目を光らして走る」とまで言われる有様


特技・・・菜種油作り・ソロバン

夢・・・家族においしい米をたらふく食べさせてあげること

桜町の人々談・・・「尊徳先生?素晴らしい方ですよ!あんな荒れた村を一軒一軒歩いてワシラに指導してくれたんですよ。最初はナニ言ってんだこいつ?と思ってましたけどね、あの人は本物でしたよ」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★ 「苦労人だよね」

キャッチフレーズ・・・戦前のヒーロー


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新田義貞  にったよしさだ
鎌倉時代後期〜室町幕府の武将 鎌倉幕府を滅亡させた人

1301年 新田家に生まれる

同じ源氏の血を引く「足利家」にライバル意識を燃やしまくっていた

が、先祖代々どうも世渡り下手で、本当は足利家よりも正統な血筋を持っているのに、まったくダメ
さらには分家にまで追い抜かれるほど貧乏になっていた

そんな新田家に生まれた義貞は、幼い頃から「いつか新田家に栄光の光を注いでやるぜ!」とやる気マンマン

そこへ「鎌倉幕府をやっつけろ!」という後醍醐天皇からの号令

義貞は兵を引き連れ鎌倉へ!

執権・北条高時を破り、大活躍!!!!と、思いきや、イイトコを全部ライバル・足利尊氏に持っていかれ、義貞は欲求不満になりまくり

が、義貞はイマイチ「ここ!」ってとこでポカをする

そのため、武士仲間からもあまり信用されず、足利尊氏の人気が急上昇

そんな中、足利尊氏が後醍醐天皇とケンカ!

後醍醐天皇は尊氏と仲の悪い義貞を頼ることに

義貞ウッキウキ

が、後醍醐天皇は「義貞を味方につけるために、ご褒美として超美女をプレゼントしちゃお」と、超美人の侍女・勾当内侍(こうとうのないし)をプレゼント

田舎武士の義貞は京の洗練された美女・勾当内侍メロメロになり、ますますポカをするように

肝心なトコでポカル性格はずーっと治らず、とうとう仲間の楠木正成をむざむざ尊氏に殺させてしまった

その後も義貞は一生懸命頑張るも力及ばず、とうとう殺されてしまいました


好きな人・・・勾当内侍「メロメロメロリンです」

嫌いな人・・・足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏足利尊氏

宝 物・・・黄金の剣

目 標・・・新田家を足利家以上に有名にすること

オモヒデ・・・「鎌倉幕府をやっつけたことです。あの頃が懐かしい・・・」

嫌なこと・・・足利尊氏と比べられること

信用できない人・・・後醍醐天皇 「なんかいいように使われてる気がしないでもないのです」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「なんかかわいそうだよ」

キャッチフレーズ・・・日本一のおっちょこちょい


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丹羽長秀  にわながひで
戦国時代の武将  織田信長の重臣

幼い頃から信長に仕え、戦いにも数多く参加したけど、どっちかというと政治方面に強いタイプ

あの名城・安土桃山城も手がけた

ある時期になると、柴田勝家に次ぐ信長家来NO2に

織田家あげての一大イベントだった「馬揃え」でも、一番最初に入場するという待遇だった

豊臣秀吉も「柴田様と丹羽様のようになりたい♪」ということで、2人の名前を一字とって「羽柴秀吉」に名前を変えた

運命が変わったのは本能寺の変から

本能寺の変で織田信長が殺され、信長を殺した明智光秀を秀吉がやっつけた

これによって秀吉は織田家の後継ぎを三法師にすることに成功

この時、一番秀吉の味方をしたのは丹羽長秀だった

が、こっから秀吉と長秀の意見の食い違いが始まる

長秀はあくまでも「織田家命!!」

ですが秀吉は「織田家」をそっちのけで、「豊臣家」としての権力を強めていく

たびたび秀吉に注意するも、もはや怒涛の勢いで天下人へ近づいている秀吉を止めることはできなかった

気持ちは憂鬱になりまくり、とうとうひきこもりになってしまった

最後は病気になり、悔しくてしょーがない気持ちを表すために切腹!!

そしてハラワタの「病巣」を取り出し、秀吉に送りつけた

突然ヘンな黒い塊を送られた秀吉はさぞやビビったことでしょう


嫌いな人・・・「サルじゃ」

ポリシー・・・「織田家命!命!命!」

嬉しかったこと・・・「信長様にオマエは友であり兄弟だぞ・・といわれたこと♪」

後悔してること・・・秀吉の口車にのりまくったこと

宝 物・・・信長様に貰った珠光茶碗 「滝川一益がめちゃくちゃうらやましそうでした」

むかつくこと・・・いつの間にか秀吉の家来みたいになってたこと 「ワシ、モト上司なのに・・・」

引きこもり後の健康状態・・・胃潰瘍 「ストレスが溜まりまくっていました。あのサルのせいで・・・」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「部下に越された気の毒上司」

キャッチフレーズ・・・サル廻しのできない男


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仁科盛信 にしな もりのぶ 1557年〜1582年
戦国時代の武将 武田信玄の五男

仁科家は名門だったため、五男の盛信が跡を継いだ

すでに信玄はおらず、武田の新当主となった勝頼によって、信州高遠城を守ることとなる

が、この頃武田家は長篠の戦に破れ、もはやボロボロ

織田信長によって攻められ続け、武田家臣内でも裏切り続出だった

そんな織田信長が、本格的に武田攻めを決行!!息子の信忠を先頭に、盛信のいる高遠城に大軍を送り込んだ

信忠は降伏するよう手紙を書いた
「武田の家臣はみんなもう織田に寝返ってるよ?あの小山田もね。降参するなら褒美あげるから、無駄な戦いやめようよ」

盛信の返事は
「オレは勝頼のために戦うつもりだ!!臆病な奴らと一緒にするな!信玄以来の武勇を見せてやる!」という勇ましいものだった

こうして織田信忠は総攻撃を開始!

盛信らはめちゃくちゃ頑張ったが、なんせ2000人しかいない。対する織田軍は5万
負けるのは目に見えていた

負傷兵・討死兵が続出し、女性や子供達が次々と自害し始めた

盛信は最後を悟り、腹を十文字に斬り、腸をわしづかみにし投げつけ、自害した
まだ26歳という若さでした



性格・・・忠義一筋・哀しいくらい勝頼に尽くした

領民の声・・・「盛信様はとてもすばらしいお方でした。本当に慈悲深いお方でした」

高遠城の兵談・・・「われら盛信様のために、最後まで戦いまする!!!」

武田家の裏切った家臣A談(匿名希望)
「武田はもうだめだというのは目に見えてわかっていたのに・・・・。最後まで意地を貫いたのでございますなぁ・・・・。それなのにワシは・・・・」

武田家の裏切った家臣B談(匿名希望)
「武田の落日の中、盛信様の戦いぶりを聞いた時は、胃が痛くなりました・・・・。なんというか、武士道を貫いたというか・・・」

織田信忠談・・・「敵ながら天晴れであった。僕の元・婚約者松姫(盛信の妹・ちなみに破談になった)の兄なので、もしかしたら義兄弟になっていた男であったのに・・・」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★★★


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仁徳天皇 にんとくてんのう

16代目の天皇

天皇の権威を高める為に、中国から伝わった伝説を利用した「カマドの煙」で有名

エピソードは・・・

ある日仁徳天皇が山に登って自分の村を見ました
すると、貧しいために家から炊事の煙が全然でない
「民は貧しくて飯がたけないのだ」
ということで、天皇は3年間税金を免除

領民たちは大喜びして、天皇の為に競って宮殿を修理しました

とゆーもの


謎・・・大山古墳はホントに仁徳天皇のお墓なのか!?

恐い人・・・奥さんの磐之姫 「ボクのお気に入りの黒日売ちゃんを追い出してしまったんです」

焦ったこと・・・「ボクが八田皇女と浮気したら、妻が実家に帰っちゃったんです」

ビビったこと・・・「妻は2度とボクのもとへ戻ってこなかったんです」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★


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新納忠元 にいろ ただもと 1526〜1610年

戦国時代の武将

島津家の庶流の家柄出身で、13歳の時に初めてお父さんと一緒に島津貴久に会う

ちょっとづつ活躍をしながら頭角を現し、最後には「島津家にいなくちゃいけない存在」とまで言われるようになってく

秀吉の九州征伐で島津家が秀吉に負けると、以後は兵士たちの教育に力をいれる


体 格・・・小柄

ニックネーム・・・鬼武蔵

第二の人生のニックネーム・・・親指忠元 「島津家にはどんな家臣がいるか?と数える時、まず最初にワシの名が挙げられるんですよ。最初に親指から曲げて数えるのでこのような名がつきました」

マイ・スポット・・・忠元公園

裏の顔・・・じつは教養人

苦手な人・・・豊臣秀吉

細川幽斉談・・・「いやぁ、彼はなかなかの詠み手ですよ。驚きました」

マイ・出版本・・・二才咄格式定目


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★


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額田王  ぬかたのおおきみ
飛鳥時代の美人歌人

中大兄皇子(天智天皇)の弟・大海人皇子(天武天皇)の奥さん

ラブラブで、大海人皇子との間には十市皇女という娘もできた

が、額田王の美しさに惚れちゃった中大兄皇子は、弟に「額田王オレにくれよ」と相談(命令)

弟の大海人皇子は、権力者の兄に逆らえず、ダイスキな額田王をお兄ちゃんに譲った

が、額田王と大海人皇子はお互いバリバリ意識しまくっていた

ある歌の会の時には、思わずみんなの前でこんな歌を詠んじゃいました

額田王  「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

意味・・・まったくアナタって人は!いっつも派手にオレオレ!オレだよ!と袖を振るけど、そんなに目立つやり方したら天智天皇にバレちゃうじゃないの

額田王に対する大海人皇子の返歌は

大海人皇子 「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも」

意味・・・人妻であろうとなんだろうと、オレはオマエがスキだぜ?チャンスがあれば奪ってやるぜ

が、実際は大海人皇子は全く額田王を奪う気配はなかった



悲しかったこと・・・天智天皇の奥さんになれと言われたこと 「しょせん女は道具なのですわ」

スキな人・・・大海人皇子

特 技・・・歌作り 「万葉集にはワタクシの作った歌がいっぱいありますのよ」

びっくり体験・・・白村江の戦いを間近でみたこと 「初めて海外旅行に行きました」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 

キャッチフレーズ・・・古代史のよろめきマダム



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沼田 顕泰 ぬまた あきやす  

戦国時代の武将

沼田顕泰は上野国利根郡沼田の豪族として生まれた

沼田家はもともと山内上杉氏に属してたんだけど、山内上杉氏がだんだんやばくなってくると北条氏康に属し、上杉謙信が関東進出にやってくると、お次は謙信に属しました

で、沼田家に御家騒動が

顕泰は息子の朝憲に家督をゆずって隠居するんだけど、ラブラブな側室の子供・景義に家督を継がせてあげたくなっちゃって、息子の朝憲を殺しちゃいました

これに家臣たちがめっちゃ怒って、なんと顕泰・景義は追放されちゃったのです

その後は蘆名氏を頼ってたらしいんだけど、まもなく病死しちゃいました


趣 味・・・土地横領

真田家談・・・「わしら、顕泰が嫌いだったので追放するのに応援してやったぞよ。フフ」

家臣談・・・「まったく昔から勝手なことばかりしてるんですよ」

マブダチ・・・斎藤憲広

頑張ったこと・・・沼田城を作ったこと


歴史メジャー度 ★

管理人お気に入り度 ★ 


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野口英世  のぐちひでよ
1876年〜1928年 福島県生まれ

一歳半の時に囲炉裏に落ちて左手を大ヤケドし、5本の指がくっついたままだった英世

そのため小さい頃はイジメられまくっていた

小学生になった時に「ボクはこの左手がある限り立派な人にはなれないのかなぁ?」と作文を書いたところ、先生や友達がお金を出し合って手術費用を作ってくれた

手術は大成功!この時英世は「ボクも医者になる!そして困った人たちを助けてあげるんだ!」と医学の世界へ

東京へ行き、医学の勉強をスタート。そしてアメリカに渡る。ここで「毒蛇」の研究をし有名に。お次はデンマークへ留学。そしてまたアメリカへ行き「梅毒スピロヘータ」の培養に成功

さらに南アフリカのエクアドルへ行き「黄熱病」の病原体を発見

黄熱病治療薬「野口ワクチン」を開発し、エクアドルでヒーローに。なんと切手にまでなった。

が、最後は自分が研究最中に黄熱病にかかり死亡しちゃいました。

ラストセリフは「ワタシにはわからない」


好きな人・・・おかあさん

尊敬する人・・・おかあさん

女性について・・・「やっぱり日本女性が一番!」

ひとこと・・・おかあさんダイスキ

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★


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乃木希典 のぎ まれすけ 1849〜1912

日露戦争の時の陸軍大将

長州藩士の三男として生まれ、明治維新後は陸軍に所属し萩の乱や西南戦争に参加

そして日露戦争で第三軍の司令長官になる

第三軍が攻略するのは、旅順という場所

ココはロシアがめっちゃ頑丈な要塞を作ってたので、攻略にすごい大変だった
全部で13万人の兵力を投入し15000人の死者を出した

そのため「愚将」とも言われるが、擁護論がめっちゃ多い

結局勝ったんだけど、諸外国では「絶対落とせないと思ってたロシアの要塞をたった6ヶ月で落とした」と驚く

ちなみに日本国内では「なにやってんだよ!だらしねぇ!」と大ブーイング

でもって、乃木は「旅順の責任をとって自刃する!」と言うんだけど、明治天皇が「死んじゃダメ!死ぬなら余がこの世を去ってからにせよ」と言って思いとどまらせる

戦争後は学習院院長となり、熱心に教育

が、明治天皇が7月30日に61歳で崩御

大葬が行われた9月13日には朝早くから参内し、別れの挨拶をし、帰宅

そしてその夜の8時に妻の静子とともに自刃した


自慢・・・吉田松陰の親戚ということ

マブダチ・・・児玉源太郎

マイブーム・・・古武士ライフを過ごすこと

ショックだったこと・・・西南戦争の時、敵に錦の御旗を倒されたこと。「あまりの申し訳なささに自殺しようと思いましたが、児玉源太郎に止められました」

悲しかったこと・・・二人の息子を日露戦争で失ったこと

嫌だったこと・・・子供の頃、嫌いなものを残したら何度も嫌いなものを出されたこと

国民A・・・「乃木は戦下手だ!旅順攻略にどんだけかかってんだ!!」

国民B・・・「え??天皇の後を追って殉職したんですか??まさに聖将ですね」

国民C・・・「乃木は日本国の軍神ですよ!」

ロシアのクロパトキン将軍談・・・「わし、やだよ!乃木怖いよ!」

ロシアのステッセル中将談・・「わし、旅順を守ってたロシアの偉い人です。敗北したのでロシアで死刑宣告されたんですが、乃木が助命運動をしてくれたので助かりました。感謝してます」

外国人報道者談・・・「彼は素晴らしいネ!ブシドーネ!ステッセル中将との会見の時、負けた将に対してきっちりと対応しましたネ!ロシア軍を讃え、帯刀も許すトハ、まさにサムライネ!!」



歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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延沢満延 のべさわ みつのぶ 1544〜1591

戦国時代の武将

出羽延沢城主の有力国人で、天童氏と仲良しだった

が、天童氏が最上家に攻められたので協力するも、負けてしまう

以後、最上家の家臣になった

満延は延沢家の中で一番強かったので、最上家に重宝されるようになる


自 慢・・・腕力 「桜の木を根元からめりめりと抜いてやったぞよ」

最上義光談・・・「あやつ、強かったんじゃよ。欲しかったのであやつの息子にワシの娘を嫁がせたのじゃ。でも、ぶっちゃけワシ、あやつ怖い・・・」

ちょっと笑っちゃったこと・・・「ある日、義光がワシの力を試そうと、7・8人でいきなり襲い掛かってきたんじゃよ。もちろんすぐさま倒してやったわい。すると義光め、すごい勢いで逃げたので引っ張り倒してやったぞな」


歴史メジャー度 ★

管理人お気に入り度 ★★


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